尾張屋板の江戸切絵図
麹町六丁目にあった錦絵双紙店・金鱗堂(尾張屋清七)が江戸切絵図を初出するのは、近江屋に3年遅れる嘉永2年(1849)でした。
近江屋が武家屋敷の多い番町絵図、永田町、駿河台小川町、芝愛宕下と大名家が多数ある武家町から出していったのに対し、尾張屋は最初にお城周りの大名小路絵図を出した後、日本橋南と日本橋北の町屋(商店街)地区から板行していきます。
尾張屋は嘉永2年(1849)から文久3年(1863)迄の14年間に江戸切絵図を32種板行し、明治3年(1870)迄の21年間にその改正板を106回も出しています。(板行年表参照)
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絵図の仕上がりについて見ると、 近江屋板が薄青、黄、墨に一部薄緑を入れた3~4色刷の淡彩絵地図だったのに対し、尾張屋板は、赤、黄、青、緑、灰、黒など、6色~7色の濃彩色の絵地図でした。(上図2,4)
尾張屋は大名の上屋敷の正門位置に朱刺の家紋を入れ、中屋敷には■、下屋敷には●を付けて、上・中・下屋敷の識別が出来るようにしました。(下図5,6)
江戸の人々にとって江戸切絵図は、武家屋敷、神社仏閣、町家等を訪ねる時や、向島、飛鳥山、目黒不動など遊興地への道案内として重宝されただけでなく、地方から来ている勤番侍が国元へ帰郷する際の“江戸土産”となって全国に広がっていったようです。 |