「江戸切絵図」の終焉

多色刷り江戸切絵図で大成功をおさめた尾張屋でしたが、「霊岸嶋八町堀日本橋南絵図」を新刻板行(文久3年1863)した4年後、慶応3年9月 時代は江戸から明治へと移ります。

それとともに武家社会は崩壊にむかい、江戸城下の武家屋敷の識別を主な目的として制作された江戸切絵図も、その役目を終える時がきました。

尾張屋は明治3年まで江戸切絵図を出し続けますが、明治に入ってから重板した絵図には社会の変化が顕著に表れてきます。

例えば「大名小路絵図」で見ると、慶応元年板で既に大名家の上屋敷を示す御紋が削られていて、名前だけの上屋敷が数家見られるようになります。

「大名小路絵図」の最後の板になる明治2年板(下図)では、お城北の丸の主要地を占めていた御三卿の田安殿、淸水殿の名が黒く塗り潰されています

 

尾張屋 明治2年改正再i板
「大名小路絵図」
(個人蔵)


右上の黒く塗り潰された屋敷は、前年出された慶応元年板までは田安殿、淸水殿。


中央左の桜田門内の大名屋敷の全てが、明治政府の機関に改称されている。



江戸城内の内桜田に集中していた老中、若年寄など江戸幕閣の上屋敷は報恩隊、御陣隊、軍務官といった明治政府の機関名に改称されており、黒く塗り潰されたままの屋敷もあります。

数寄屋橋御門の南町奉行所は執次巳に、呉服橋御門の北町奉行所は刑法官に変わりました。(明治2年板参照

明治に入って重版された絵図の表紙外題の頭には下記①~④のように「東京」「東京御郭内」「東京御郭外」を付けて、新しい東京切絵図の感じを出そうとした試みがうかがえます。

①明治元年 外題「東京市街京橋南築地」    旧外題「京橋南築地絵図」   内題「京橋南築地鉄炮州絵図」

②明治2年  外題「東京大名小路桜田内」    旧外題「大名小路絵図」     内題「御曲輪内大名小路絵図」

③明治2年  外題「東京御郭内外桜田永田町」 旧外題「外桜田永田町絵図」  内題「麹町永田町外桜田絵図」

④文久元年(ママ) 外題「東京御郭外高輪白金辺図」 旧外題「芝高輪辺絵図」 内題「芝三田二本榎高輪辺絵図」(明治3年重板)

明治3年になると、上記④のように「明治3年」の刊年が無く、旧板のママの刊記で販売されたのも見られます。

このように尾張屋は明治3年まで種々の工夫を加えて江戸(東京)切絵図を出し続けますが、明治4年以降は板行した記録を見つけることが出来ません。

明治元年から3年までに合計28図35回重板を出した後、江戸地図の舞台から消えていきます。

                                             



尾張屋 嘉永2年板「大名小路絵図」 (国会図書館蔵)


この嘉永2年板と上図明治2年板を比較してみてください。
 

嘉永2年(1849)から明治3年(1870)までの20年間に、尾張屋が板行した江戸切絵図の新・重板の合計は135回を数えます。

1回の刷り枚数を300枚程度と仮定した場合、おおよそ40,000枚余りの江戸切絵図を世に出したことになります?

尾張屋の江戸切絵図は、脈々と受け継がれてきた江戸地図の最後の32図であり、激動する幕末江戸市中の変遷の姿をいきいきと伝えてくれる貴重な資料といえます。



参考文献 『江戸図の歴史 「別冊・江戸図総覧」 飯田龍一 俵元昭 築地書館 1988
文責・岩橋文武 2016©




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