明治に入ってからの江戸切絵図
大名小路絵図は慶応元年の8板で改正再板され、半蔵門までの城堀全域を収めた“鶴亀板”になります。それまでの外題“御江戸大名小路絵図”から“御江戸”が消えたのもこの板からです。
明治2年の最終板では田安殿、淸水殿の名前が黒く塗り潰され(上図②右上)、一ツ橋御門の一ツ橋家も蜂須賀中納言に変わり(同右中央)、御三卿が消えています。
桜田門内に集中していた老中、若年寄など江戸幕閣の上屋敷は軍務官、報恩隊、神祇官といった明治政府の機関名になり、呉服橋御門の北町奉行所は「刑法官」、数寄屋橋御門の「南町奉行所は「執次巳」に変わり、主要な所から先に明治に移っていきます。 |
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『江戸図の歴史』「別冊・江戸図総覧」(築地陰書簡)の江戸図板行年表によると、尾張屋は明治元年から3年までに29種の切絵図を36回重板し、そのうちの7種を2回出しています。
この2回出している7種の1回目と2回目について、内題、外題の絵図名と奥付刊記を下表にしてみました。内題は絵図中の絵図名、外題は表紙題箋中の絵図名です。
これによると、内題は両図とも同じで、板行年も同じ年ですから、1回目を出して間もなく題箋を「東京〇〇」に変えて貼り替え、内容はそのママで2回目を出したと推測できます。 |