土地を貸して生活費に補填していた与力
与力の所有地の広さはおよそ250坪から350坪、同心は100坪余だったそうです(江戸学事典)。八町堀細見絵図を見ると、与力の広い土地の中に“医”とか“勾当”“検校”“歌人”といった文字が頭についた人名が多数ありますが、これは与力がこれらの生業(なりわい)の人に土地の一部を貸して生活費に補填していたそうです。
この絵図中の借り手の数を生業別に数えてみると、医(医者)=32、勾当(事務官)=9、検校=4、手(手習い?)=6、歌人=2、御用達=2、手跡(書記?)=1、金座人=1、刀法=1、能(能役者)=1、儒(国学者)=1、心学(道徳)=1、具足師=1で、そのほか変わったところで吉床(床屋 ろ参)、初音(駕籠屋? は弐)が見えます。
近江屋板を大胆に改変した尾張屋の工夫
尾張屋板「八町堀細見絵図」(文久2年)は、近江屋が8年前に出した「本八丁堀辺之絵図」(嘉永7年)に幾つかの変更を加えて板行したものでした。両者とも八町堀に限った区域を扱っているのは同じですが、使いやすくするための尾張屋の工夫を随所に見ることが出来ます。
①7色の彩色地図 近江屋が墨、黄、薄青の淡彩3色で刷っているのに対し、尾張屋は墨、青、朱、黄、灰、薄青、薄赤の濃彩7色を使い、見やすく、華やかになっています。 |
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②方位を180度回転 尾張屋は近江屋板の絵図の天地を逆さまにしています。近江屋板の本八町堀辺之絵図は東を上にしているのに対し、尾張屋板はそれを180度回転させて西を上にしています。
この区域は東を上にすると江戸湾が絵図の上方にきて、江戸城が真下の方角になります。八町堀細見絵図には江戸湾も江戸城も出てきませんが、尾張屋板は江戸城が真上の方角に来るように変更されていました。
③旦那衆の表示を工夫 近江屋の八町堀絵図は、与力に片仮名で“ヨ”を付け、南町奉行所の配下衆には▲、北町には●を名前の頭に付けて区別しています。尾張屋は前述のように与力に㋕を付け、同心は無印、南北の所属は地色を薄青と薄赤にしています。絵図を開いた時に南北の配置状況が一目で分かり、目的の与力や同心の屋敷が探しやすくなっています。
④借り手の生業を表示 近江屋板は与力の土地を借りていた人名を、“勾当”“検校”だけは杉浦勾当”“篠崎検校”と表記し、ほかの生業の借り手については鈴木良庵、小泉仙竜、あるいは松寿堂、竜翔堂などと号を入れてあるだけです。生業が分からないように?しています。
尾張屋は勾当、検校以外の生業にも医、手、歌人、能の文字を氏名の頭に付けて、名前と生業の両方がわかるようにしています。 |